MICHELANGELO and the ldeal Body |
空前絶後! |
《ダヴィデ=アポロ》 《若き洗礼者ヨハネ》 |
本展は、イタリア・ルネサンスの巨人ミケランジェロ・ブオナローティ (1475-1564) の大理石彫刻の傑作を核として、古代ギリシャ・ローマとルネサンス期に追及された理想の身体表現を紹介するものです。 |
ルネサンス美術は古代ギリシャ・ローマ美術を基礎として生まれましたが、その際、ルネサンスの芸術家にとりわけ大きな影響を与えたのは、フィレンツェやローマで目にすることのできた数々の古代彫刻でした。
古代ギリシャ人は長い年月をかけた理想の美を追い求めましたが、最も重要な役割になっていたのが男性裸体彫刻です。 古代オリンピックが、神に捧げるものとして鍛えられた美しい裸体で行われたように、美の規範は男性の裸体表現によって示されたのです。 |
その影響を受け、ルネサンスで最も徹底して男性の身体を追求したのがミケランジェロでした。 彼が生きた時代には、ラオコーンなど古代彫刻の名品が発掘され、ミケランジェロがその発掘現場を訪ねたという記録も残っています。 本展には、20 歳の若き時代に古代の美の規範を忠実に再現した 《若き洗礼者ヨハネ》、独自な展開を見せた円熟期の傑作 《ダヴィデ=アポロ》 が出品されます。 |
会期: 2018 6/19 [火]~ 9/24 [月・休] 展覧会は終了しました。 |
'2018 6_18 「ミケランジェロと理想の身体」 報道内覧会の会場内の風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
「ミケランジェロと理想の身体」 |
「神のごとき」 と称された ミケランジェロ 天才の生み出した傑作― |
「ミケランジェロと理想の身体」 |
本展は、世界に約 40 点しか現存しないミケランジェロの大理石彫刻から 2 点が初来日するまたとない機会であるとともに、古代とルネサンスの美術を様々な観点から比較しながらその特徴を明らかにするものです。 |
「展覧会の構成」 |
'2018 6.18 「ミケランジェロと理想の身体」報道内覧会の会場内風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
第 1 章 3 節「アスリートと戦士」 ・cat. 19 |
Ⅰ 第 1 章 人間の時代―美の規範、古代からルネサンスへ |
左・cat. 19 《アメルングの運動選手》 紀元前 1 世紀 大理石 高さ: 131 cm フィレンツェ国立考古学博物館 |
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左・cat. 19― この男性裸体像は頭部、両腕全体、そして両脚の膝から下の部分が欠損している。 しかし残されたそれぞれの部位の動き―腰骨の左右の位置関係、上半身の筋肉の浮き上がり方、胴体を貫く体中線の曲がり具合など―から、像は元々、右脚に重心をかけて立つ人物を表していたことが想像できる。
古代ローは古代ギリシャを征服したが、征服者であるローマ人はギリシャ人の美術にすっかり魅了されてしまう。 とりわけギリシャ彫刻の名作はローマ人の垂涎の的だったが、オリジナルの入手が難しかったので、名作の精密な模刻が大量生産されたのである。
ギリシャ彫刻を大理石で複製したこのような作品は、「ローマン・コピー」 と呼ばれている。 中/右・cat. 01 / cat. 02 ふたつの浮彫には有翼の童子プット―がそれぞれふたりずつ表されている。 プット―はクラミュス (短いマント) だけを身につけたほぼ裸体の姿である。 |
Ⅱ 第 2 章 ミケランジェロと男性美の理想 |
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左・cat. 43 《竪琴を弾くアポロン》 2 世紀初頭 大理石 高さ: 96 cm フィレンツェ国立考古学博物館 |
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左・cat. 43 一糸まとわぬ姿のアポロンが、キタラを一心に奏でている。 キタラは古代ギリシャの弦楽器の一種で、ハーブのように弦を縦にして指で掻き鳴らした。 医術や弓術の神として知られるアポロンは、音楽の神様でもあった。 事実上、古代ギリシャ人にとってアポロンは、あらゆる知性と文化を代表する神だったのである。 中・cat. 56 最盛期ルネサンスが美的かつ文化的な観点からいかに偉大であったか、その主要な理由や源泉についてヴァザーリは、後の新古典主義まで常に規範とされた古代彫刻が 15 世紀と 16 世紀にまたがる期間に再発見されたことを挙げている。 人文主義的な嗜好に基ずく考古学は 15 世紀にすでに花開いていたが、16 世紀の初めには古代作品から生み出される芸術の潮流は決定的に変化した。 もはや古典古代に学ぶということは、15 世紀の芸術家や知識人のようにいわゆる 「骨董品」 と関わり合うことではなく、16 世紀には古代から新たな芸術の規範を見出そうとしたのである。右・cat. 57 『アエネイス』 第 2 巻の叙述によると、トロイの神官であったラオコーンは、砂浜にギリシャ人が置いていった木馬を市中に入れようとした市民をいましめた。 木馬は見た目は空洞のようでいて中にはギリシャ兵士たちが隠れていた。 ラオコーンが弓矢で木馬を射ると、海から 2 匹の蛇が現れて、彼のふたりの息子に襲いかかり、息子を助けようとしたラオコーンもろともに絞め殺してしまった。 トロイの人々は、ラオコーンは神々に罰せられたのであろうと信じ、トロイを陥落させることになる木馬を市中に入れたのだった。 |
・cat. 67 |
Ⅲ 第 3 章 伝説上のミケランジェロ |
左・cat. 59 /右・cat. 60 |
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左・cat. 67 アドリアーノ・チェチョーニ [1836 年、ヴァーリア―1886 年、フィレンツェ] 《モーセ像を制作するミケランジェロ》 1879-80 年 テラコッタ 40 x 20 x 20 cm フィレンツェ、素描アカデミー | |
左・cat. 67 ミケランジェロの顔立ちは、髪や髭の房、濃い眉毛は入念に表され、また顔の深い皴からもわかるように、人をにらみつけるようにひたすら制作に集中する表情も同じく丹念に表され、ミケランジェロが制作する姿をいきいきと復元している。 ミケランジェロは、教皇ユリウス 2 世の墓廟のため、預言者 (モーセ像) の塑像を親指で作り出すことに集中している 中・cat. 59 活版印刷が発明されて以来、最初の抜刷として極めて珍しい本書は、1568 年にフィレンツェのジュンティ印刷所から刊行されたジョルジュ・ヴァザーリの 『美術家列伝』 第 2 版の中から、ミケランジェロの伝記個所を再掲載したものである。 ヴァザーリはこの献辞の中で、ミケランジェロの偉大さを鑑みて、彼の伝記を単独で出版しようと思い至ったことを力説している。 ヴァザーリによる 『美術家列伝』 は 3 部構成になっており、第 1 部は中世の芸術家たちに、第 2 部は 15 世紀の芸術家たちに、第 3 部は 16 世紀の芸術家たちに捧げられている。 右・cat. 60 アスカニオ・コンディーヴィが著した 『ミケランジェロ伝』 (1553 年) は 「本人公認の人物伝」 として、ヴァザーリによる 『美術家列伝』 第 1 版 (1550 年) に収められたミケランジェロの伝記に対する返答となっている。 本書は、ミケランジェロの友人にして弟子であったコンディーヴィ [1525 年、リーパトランゾーネ―1574 年、リーパトランゾーネ] が、芸術家その人の指示のもと編纂した擁護的な作品で、ミケランジェロの死の 11 年前にアントニオ・ブラードの活版印刷によりローマにおいて刊行された。 これは当時としては非常に珍しい事例で、その頃すでにミケランジェロの人物像を取り巻いていた神格化の空気を証言している。 |
・cat 62 パッシニャーノ (ドメニコ・クレスティ) 《ミケランジェロの肖像》 17 世紀初頭 油彩/カンヴァス 120.5 x 95.5 cm 個人蔵 |
ミケランジェロにおける人間、ミケランジェロという人間 ルドヴィーカ・セブレゴンディ (美術史家) |
…ミケランジェロは画家、建築家、そして詩人でもあったが、彼の関心はとりわけ、古代の作品が相当数残っている彫刻の技法に向けられていた。 彼の彫刻に対する考え方は、1547
年 4 月から 6 月にローマで書かれた手紙で言及されている。 これは、ベネデット・ヴァルキが複数の芸術家に絵画と彫刻の優位性について問うたことに対して答えたものである。
「私が思うに、絵画は浮彫に近づけばより良いものになるし、浮彫は絵画に近づけば悪いものになります。 でも何よりも彫刻は絵画のお手本になるものだと思います。
私は彫刻というものは、どうしても取り出すべきものとして制作するものと考えます。 作り込んで制作するのだったら、それは絵画と同じです」。 つまりミケランジェロは、真の彫刻というものは
「作り込んで」、つまり成型して可塑性のある素材を加えていくことでできるものではなく、大理石の塊から過剰な部分 (「余分」) を取り去ってできるものだと主張している。
ミケランジェロによれば、石の中にはすでに潜在的にその像は内包されており、芸術家の手によって余計なものを取り去られ自由になるのを待っているというのである。… |
…ミケランジェロの主たる関心事は人間であったが、人間としてのミケランジェロについてコンディーヴィは以下のように記している。 「ミケランジェロは、贅肉がついているというより筋骨たくましく、良い体格をしている。 節制しているため肉体的にも、またとりわけ精神的に健康であった。 いつも顔色は良かった。 背丈は中ぐらいで、肩幅は広く、全体としてどちらかといえば細身ではなかった」。 また下唇が 「かなり分厚かった」。 気難しく短気で自尊心の強い性格については何度も繰り返し語られており、教皇レオ 10 世をして 「ミケランジェロはひどいものだ、誰の手にも負えない」 と言わしめている。 しかし、1533-34 まで友人であったセバスティアーノ・デル・ピオンボは、ミケランジェロに宛てた 1520 年の手紙で 「芸術面ではともかくとして、私にはひどい人とは思われません。 いまだかつてない巨匠です」 と答えた、とはっきりと述べている。… |
…自分の敵に対しては厳しかったミケランジェロだが、貴族の血を引く家系であるという威厳を保ちたかったのか、友人や家族には気前が良かった。 1508
年にはギベッリーナ通りの家を購入したが、それは甥のレオナルドとその子孫のものになった。 そしてその家には後に、甥の息子で同名のミケランジェロ・イル・ジョーヴァネが、偉大なミケランジェロを讃える絵画を集めたギャラリーを構えることになるのだった。 |
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参考資料:「ミケランジェロと理想の身体」図録、PRESS RELEASE & 報道資料 、チラシ。 |
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